北条時頼は鎌倉幕府の第5代執権を務めた人物。
目次
北条時頼はどんな人物?基本情報
生年月日 | 嘉禄3年(1138年) |
没日 | 弘長3年(1263年) |
子供 | 時輔、時宗、宗政、宗時、政頼、宗頼、時厳など |
北条時頼の生涯の出来事は?簡単にまとめ
1237年(嘉禎3年)
【4月22日】11歳にして元服、征夷大将軍・九条頼経の偏諱を賜り五郎時頼を名乗る
【8月16日】鶴岡八幡宮放生会で流鏑馬を担当
1242年(仁治3年)
祖父の北条泰時が死去、翌日に兄の北条経時が第4代執権に【6月16日】
1244年(寛元2年)
鎌倉幕府四代将軍『藤原頼経』が子の頼嗣に将軍職を譲る。【4月28日】
1246年(寛元4年)
深秘の御沙汰で、病の経時に代わって時頼が執権に就任。
兄の北条経時が死去(享年23歳)
前将軍の頼経を鎌倉から追放※宮騒動
宮騒動は、名越流北条氏の祖北条朝時の嫡男で二代執権北条義時の孫の【名越光時】が頼経や頼経側近の御家人とともに時頼打倒を企てた反乱。光時は伊豆国の江間に流され、頼経は鎌倉を追放となって京都へ送還されたこと。
1247年(宝治元年)
三浦泰村を滅ぼす【6月5日】
北条時頼の襲撃により館に火をかけられた『三浦泰村』は、源頼朝の法華堂に籠もって永福寺で陣を構えていた弟の光村と合流し、一族500余名とともに自刃した。
1248年(宝治2年)
長男の『時輔』が生まれる。【5月28日】
1249年(建長元年)
時頼が評定衆の下に引付(ひきつけ)を設置
1251年(建長3年)
嫡子時宗が生まれる
1256年(康元元年)
赤痢病に罹ったのを機に執権を辞す。その後、最明寺で出家する
1263年(弘長3年)
北条義時死去(享年37歳)
北条時頼の墓所
明月院
最明寺